〈ルターの推しビト 02〉アーサー・ビナードさん講演「パパが池におっこちた―笑いと文学と教育をめぐって」

●新英語教育研究会50周年記念 第46回全国大会 特別講演会
アーサー・ビナードさん「パパが池におっこちた―笑いと文学と教育をめぐって」
日時:2009年8月3日(金)11:00~12:30
会場:清泉女子大学(東京都品川区)

●新英研神奈川支部会報担当・和田さつきから: 
2年前の新英研の大阪大会に続いて2回目の講演。話題は、大阪から鎌倉へ、織田作之助から太宰治へ、スキヤキソングからアフリカの諺へ、ローレンスの詩から『ふしぎな国のアリス』の絵本へ、また英語の授業の在り方から国際宇宙ステーションに隠されたウソへと縦横無尽。しかしながら、大会テーマ「笑いと平和とことばと人間」が縦糸となって丁寧につながれた見事な講演でした。ビナードさんの豊かな日本語の語彙で語られた大阪の夕陽丘(ゆうひがおか)の描写が詩的でした。D・H・ローレンスの多神教的な世界を表現した英詩「マキシマス」では、「旅人を見たら神だと思え」という教えに基づいた、見知らぬ他者を受容する作法、寛容の精神を思い出させてくださいました。「丁寧に確かめつつ、限定した選択肢の中にやわらかく誘導していくというのが『もしも』のifの作用・役割」という鋭い観察があり、言語分析好きの私は大いに頷きました。また、2年前の講演会で炸裂した(!)「ビナードさんのつぶやき」が今回もいくつかありましたが、「国際宇宙ステーションのことは、若田(わかだ)さんがどこまでわかっているのか…、『わからなかったさん』なのかもしれないけれど…」が気に入りました。すばらしい講演、ありがとうございました。                

はじめに

ビナードさん(Arthur Binard)のプロフィール

1967年7月2日生の42歳。米国ミシガン州出身。20歳の頃、ミラノに1年半滞在、イタリア語を習得、米国に戻り、90年コルゲート大学英米文学部を卒業、卒論で出会った漢字に惹かれて来日。以来、日本語を生かし、詩人・翻訳家・エッセイスト・ラジオパーソナリティ[「サタデー夢ラジオ」(青森放送) 月1回のパーソナリティ、「吉田照美 ソコダイジナトコ」(文化放送)木曜日コメンテーター]として活躍中。奥さんは詩人の木坂涼(きさか りょう)さん。

受賞

2001年、詩集『釣り上げては』(思潮社)で中原中也賞。
2005年『日本語ぽこりぽこり』(小学館)で講談社エッセイ賞。
2007年『ここが家だ ベンシャーンの第五福竜丸』(集英社)で日本絵本賞。
2008年『左右の安全』(集英社)で山本健吉文学賞(詩部門)。

著作

詩集『ゴミの日』(理論社)、
訳詩集『日本の名詩、英語でおどる』(みすず書房)、
エッセイ集『日々の非常口』(朝日新聞社)、
『出世ミミズ』(集英社文庫)、
翻訳絵本の最新作(2008年当時)はメアリー・ブレア挿絵の『ふしぎの国のアリス』(講談社)

講演当日のエピソード

都内や近郊の移動に自転車を多用しているビナードさん。講演前に汗だくになってはいけないと思って、珍しく電車に乗ったら、電車のトラブルのせいで遅刻。かえって、汗びっしょりになってしまいました…。

読み間違い(その1)マンションの名前

新英研の大阪大会は2年前でしたか、おしゃべりしていろいろ勉強させていただきました。その前の年でしたか、梅雨の頃、大阪で講演があって、新幹線、地下鉄、タクシーを乗り継いで、ずっとしゃべる原稿をいじって、ほとんど景色も見ずにいて、会場に着いて、自分がどこにいるか意識もせずに、控え室に入って、弁当をほうばっていて、窓の外を見たら街路樹のむこうに工事現場があって、マンションが建築中で、その看板にはカタカナで「リベール グランタ 陽丘(ひおか)」と書いてあったんですね。「リベール」は自由とかリベラルというイメージかなと思った。「グランタ」っていうとイギリスのケンブリッジ大学から始まった由緒ある文芸誌『グランタ』 で、英語で詩歌をやっている人だったら知っているので、ひょっとして英文学に詳しい人がオーナーかもしれないなと思った。でも「陽丘」という2文字はなんと読むのかな、中国の古い地名にあったような気もして、「ひがおか」「ひおか」なのかな…と思ったら、ある瞬間、「タ」が変身しちゃったんですね。夕陽丘(ゆうひがおか)の「夕」に。「リベール グラン 夕陽丘(ゆうひがおか)」だったんですね(笑)。そこで自分が夕陽丘(ゆうひがおか)というところに来ているのだ、大阪だと悟ったんです。
そのころ、雑誌の連載のタイトル を考えていて、結局「へそくりヶ丘」にしたのですが、「~がおか」を「が」にするか「ヶ」にするか、あるいはヶを抜いて夕陽丘式に「へそくり丘」にするかで、いろいろな町の地図を見たりして「金沢にも光が丘があるんだ」とか余計な知識が入って、夕陽丘みたいに「へそくり丘」にしたかったけれど、「へそくりおか」と読まれてしまうので、「ヶ」を入れました。そのとき、その地名にお世話になったんですね。

★編集註:文芸誌『グランタ』は『クマのプーさん』のA・A・ミルンらが参加した学内誌。ちなみにThe Granta「ザ・グランタ」とはケンブリッジの町を流れる川の古名。
★編集註:「雑誌の連載のタイトルを考えていて…」というのは、『週刊現代』の「へそくりヶ丘日本語3丁目」

夕陽丘にある口縄坂と織田作之助

織田作之助が夕陽丘を愛していて、『木の都(きのみこ)』という作品の舞台になっていて、「大阪は木のない都だといはれてゐるが、しかし私の幼時の記憶は不思議に木と結びついてゐる。」というふうに、随筆、回想録というかんじで書かれた小説です。どうってことないストーリーなのに、その土地の雰囲気、その場所が不思議と印象に残る。夕陽丘を何度も何度も主人公が歩いて、どうでもいいようなことを描写しているのに、積み重なって深い印象になっていくんですね。
口縄坂(くちなわざか)というところがあって、「口繩(くちなは)とは大阪で蛇のことである。といえば、はや察せられるように、口繩坂はまことに蛇のごとくくねくねと木々の間を縫って登る古びた石段の坂である。蛇坂(へびざか)といってしまえば打(ぶ)ちこわしになるところを、くちなわ坂とよんだところに情調も『をかし味』もうかがわれ、この名のゆえに大阪では一番さきに頭に泛(うか)ぶ坂なのだが…」と、織田作(おださく)は口縄坂を褒めたたえて書いています。講演会の主催者に講演の始まる前に、くちなわ坂はどこにあるか知っているかと訊いたら、講演が終わって、控え室に戻ると、彼が親切にネットで調べてくれていて、夕方の夕陽丘散策を楽しむことになったんですね。
「下駄屋の隣に薬屋があつた。薬屋の隣に風呂屋があつた。風呂屋の隣に床屋があつた。床屋の隣に仏壇屋があつた。仏壇屋の隣に桶屋があつた。桶屋の隣に標札屋があつた。標札屋の隣に……」と延々とこういうふうに書いているんですね。なんかこう、ばかみたいって思うんだけれど、丁寧に書いて、ひとつひとつ区切っていることで、町を順番にたどってゆっくり歩くような感覚で、自分のものになるんですね。
僕が歩いた、くちなわ坂と夕陽丘の町は、言うまでもなく大きく変遷していたんですね。桶屋もない、標札屋もない。仏壇屋もなくなっていた。だけど、高層マンション・鉄筋コンクリート住宅の間に、木造住宅が粘り強くひっそりと立っていて、庭先に紫陽花(あじさい)の花が咲いたり、クチナシの花がいい香りがただわせていたり…。くちなわ坂はびっくりしたのですが、「蛇のようにくねくね」と織田作(おださく)が書いているんですけれど、轢かれた蛇のように真っ直ぐになっていて…(笑)。整理されちゃったんですね、石段も。でも、石段にはなっていて、とても良い坂なのですが、ちょっとくねくねがなくなって残念だな、と思いました。

読み間違い(その2)ゴミ置き場の看板

町を歩いて路地の奥を覗いていたら、思いがけず、鎌倉へワープしてしまったんですね。大阪の夕陽丘からいきなり鎌倉に行っちゃった。というのは、電柱に針金で止められたアルミの看板があって、「鎌倉文化以外 ゴミホルナ 不動明王」と書いてあった。でも、「リベール グランタ」と読み違えたばかりだったので、なんか自分が頭おかしいんじゃないかと思った。「ゴミホルナ」というのは、日本にそういう迷信があるのかな、「ゴミシュナー」とか考えて…、でも「ゴミを捨てるな」だろうと。そうなると「鎌倉文化以外」というのは「他の文化を捨てないで、鎌倉文化だけは捨ててもかまわない?」「鎌倉文化が捨てる側の主語であって、仏教の中に不動明王が衆生(しゅじょう)をそんな具合に諭(さと)して、お経からの引用で[木魚のリズムで]カ・マ・ク・ラ・ブ・ン・カ…なのか? 古典から引いているのか?」と頭がこんがらがっていたら、白髪のおばあさんが通りかかったので尋ねると、「鎌倉さんの文化住宅はあそこや!」って言うんですね。「あぁ、その鎌倉文化住宅に住む人以外はゴミを捨てるのはダメ、っていうことですね…」「さいな。オタク、日本語がお上手やなぁ」と言われた(笑)。鎌倉文化って、文化住宅のことだったんですね。この看板が僕の脳裏に焼き付いて、文化の話となると、これを思い出すんですね。

「文化」という言葉の実体を疑う

19年前に日本に来て、詩人になりたいとは思っていて作品も発表できるものもなく自分で書いているだけだったけれど、何年かたって人前で話すようになり、区役所・市役所が主催する国際交流のイベントでパネリストになったりしましたが、そのころは「異文化理解」というテーマが流行っていて、「異文化を楽しむ」「日本文化」「アメリカ文化」というのに違和感があった。今でも「文化」という言葉は自分からはまず使わない。文化の意味がわからない。文化というのを突き詰めていくとそれは蜃気楼のようなもの。でも、鎌倉文化は分かる(笑)。「アーサー・ビナード、異文化を語る」となるとダメですね。異文化なんてないよ、そんなもん。異なる文化といっても日本文化もアメリカ文化ともつながっているし、白人がヨーロッパから持ってきたものといっても、ナバホ族の文化といっても、世界の他の国々の人々の文化とつながっている。異なる文化といっても突き詰めていくと無いと思う。比較すると、特徴があぶり出されて楽しいけれど…。

太宰治と『金木(かなぎ)文化』=実体のある文化には匂いがする

太宰治(青森県北津軽金木村生まれ)のラジオのドキュメンタリーを作るため、金木(かなぎ)に取材に行きました。第1次世界大戦が終わる少し前に金木の実家に帰って1年4ヶ月、斜陽館の離れで暮らし、戦争が終わって芸術に興味にある人が地元のお寺で集まって同人誌を出すことになり、創刊号に太宰は言葉を寄せています。その雑誌が『金木(かなぎ)文化』と言います。その「文化」はわかる。創刊号のコピーを持っています。右から左へ「金木文化」と書いてあり、その上にThe Kanagi Bunkaとローマ字で書いてあって、創刊号の号の字が号に虎のつく、古い「號」になっています。そこに太宰が寄せた言葉は「汝を愛し 汝を憎む」。いかにも太宰のなぞめいた思わせぶりな言葉だと思うのですが、金木という町は把握できる、金木という土地には根っこがついて、土がついて、匂いがする、文化と呼べるものがある。こういうのには匂いがする。鎌倉文化という住宅には存在があって暮らしている人がいる。だけど、日本文化、アメリカ文化と広げてしまうと、あやしい。匂いがしない、匂いがあっても、胡散臭(うさんくさ)さがある。ある具体的なものがあってはじめて文化ということばを使って良いと思う。食文化というのはわかるし、僕は認める。見つめるためには言葉というレンズが要る。文化をとらえようとすると、言葉が必要。奥を見つめるためにも言葉というレンズが必要。文化は言葉があってはじめて成り立つもの。言葉を通じて深めていくもの。文化というのは言葉ではないかなと考えると具体的な骨組みが見えてくるような気がします。

スキヤキとクワヤキ

『上を向いて歩こう』の英語バージョンがあって「SUKIYAKI Song」になっていますが、日本に来ていろいろな人にそれを聞かされました。青森の伊奈かっぺいさん は永六輔さんと古い友達で、なんで(スキヤキソングっていうの)だろうと(永六輔さんに)言われて、伊奈さん[編集註:ビナードさんは青森放送「サタデー夢ラジオ」(2004年4月~)で月1回のパーソナリティをしており、青森放送と縁の深いマルチタレントの伊奈かっぺいさんと仲良し。]も知らないということで、僕が調べてみたんですけれど、どうってことないようですね。日本語の「に」の字も知らない人が下訳をもらって、坂本九の歌も聴き取れず、永六輔の歌詞も読めずに、中村八大のメロディーにあわせて英語に訳したようですね。英語ではかなりくさい失恋の歌で「こんなに僕が落ち込んでブルーなのは君のせいなんだ~。君と会えなくなって毎日僕の心は雨模様だ。君は永遠に知らないだろう、こんなに僕が愛していることを~」としつこい感じ。
スペイン語バージョンでは英語からの翻訳で、惚れたはれたの文句が延々と続いていて、最後まで聴くとひとつの疑問がわく。「鍋も豆腐も牛肉もネギの1本だって出てこないのに、いったいどこがスキヤキ・ソングなんだ?」と思っていた。いいかげんに使ったということらしいですね。『上を向いて歩こう』が「スキヤキソング」になったことを日本の人々は知っていて不思議な訳だなとみなさんは思うんですけれど、僕なんかは歌を聴いてスキヤキがどこにあるのかが不思議なんですよね。
 クリスマスに一時帰国したときに叔母やおばあちゃんに「スキヤキって何?」と訊(き)いた。もちろん英語で訊(き)いたんですけどね、聞き取り調査ですね(笑)。叔母の答えが典型的で「スキヤキって、それは…日本のもの? 料理かしら?」。僕も皆さんもスキヤキと聞けば、匂いまでわかってしまう、ネギや生卵まで浮かんでくる。デトロイトの叔母にとっては響きが日本語ぽくって丁度よい。ジャパニーズの雰囲気が醸(かも)し出される。「寿司ソング」「天ぷらソング」「フジヤマ・ソング」だとハッキリしすぎる。わかるような、わからないような、4シラブルのスキヤキはちょうどいい曖昧さがあって雰囲気だけ醸しだす。聞き取り調査をやったのをまとめて、永六輔さんに報告しなきゃと思って、百科辞書を引いていてスキヤキの漢字表記を知ったんですが、みなさんご存じですか? 僕はてっきり「大好き」の「好き」かと思っていたら、「金偏に助ける」の「鋤焼き[すきやき]」だった。語源によると鉄鍋の代わりに鋤[すき]を使って肉を焼いた。日本では江戸時代は肉を食べてはいけないという時代があって、畑の山奥でバーベキューやるなら許されるかな、という「隠れ肉食」の歴史と関係があるという説がある。
英語にも農具が調理器具に使われた話があるんです。ホットケーキをpancakes[パンケイクス]と現代のアメリカ人はよく言いますが、古い言い方で祖母はhoecakes[ホゥケイクス]と言う。ホットではなく、hoe[ホゥ]と言う。hoeは鍬[くわ]。畑の隅で火をたいて鍬のフライパン代わりに使った。スキヤキではなく、クワヤキ。「同じだ!」と思った。このように発想がつながったり、歌が世界を旅して、言語と言語を不思議なずれをいろいろはらみながらつなげていっているので、「異文化」というものはないと思う。日本語には「鋤焼き[すきやき]」があり、英語を掘り下げて耕してみると「鍬焼き[くわやき]」ということばが見つかる。同じようなことを考えたりやったりして、言語に同じように反映されている。土の中においしいジャガイモや山芋が埋まっているように、そういう単語が埋まっていて、それを発見するとつながる。掘り下げて、比較する必要がある。文化を掘り下げて比較しようとするならば、言葉が鍬だったり、鋤だったり、見るためのレンズだったりする。言葉を使って掘り下げていく。

発見する楽しさが英語を学ぶ原動力になる

言葉が出来るようになるにはある程度勉強しなければいけません。それを勉強の目的と生徒たちに言うと、何言っているかわからない、となってしまう。自分で掘り下げてみて何か発見して、自分が今まで考えていた世界と違うなと思う。そういうふうに自分で発見してみて初めて分かることがあるんですね。これから小学校で英語をやろうっていうんだからね。まだ発見ができていない子どもたちにいかに発見につなげていくか、これが英語の教育の大事なポイントだと思います。

ことわざを比べる楽しさ

ことわざを比べていくのもおもしろい。英語だとこれだとイコールマークでつなげる諺もあれば、そうでないものもある。
「3人寄れば文殊の知恵」はないんだよね。必要だと思うんだけどね。
英語では「3人がひとつの大事な秘密を守ることができる、ただし3人のうちの2人が死んでいればの話」。“Three may keep a secret, if two of them are dead.” (Benjamin Franklin)という諺がある。3人が秘密を守ることはあり得ないっていう話なんですね。3人の集まりは否定的にとらえられているんですね、秘密を守る上では好ましくない。3人よれば必ず情報が漏洩する(leak)すると。英語に基づいた政治と経済の文化は秘密主義であると読み取れるかもしれない。反対に日本では3人寄ればいいことがあるよ、コミュニティーを大切にしているという深読みもできる。
既成の英語のことわざにないものを作ることもできる。(英語には)「窮鼠猫をかむ」というのもない。新しい諺を作るのも楽しい。アメリカで生まれ育って日本に来て、英語・日本語を見てきたが、全部知り尽くしているわけではなく、僕の知らない英語もある。しかし自分の世界観を変える言葉に出会うときがある。英語で出会うと翻訳したくなる。

イタリアに行って戻ってきた21歳のときに大学のスタディグループで、インドのマドラスに行って、タミール語を習った。個人レッスンでインドの言語学の偉い先生で、インドの言語を6~7つ流暢に話せて、タミール語が母語で、英語が僕よりもはるかにうまく、英語を教わりながらタミール語を教わったかんじだった。授業が脱線するとおもしろいので先生を脱線させようとして、ある時、インド独立の話になって、インドに昔からあることわざを教えてもらったんですね。メロンが出てくることわざなんですけれども…、「包丁がメロンの上に落ちても、メロンが包丁の上に落ちても、切られるのはメロンだ」(Whether the knife falls on the melon or the melon on the knife, the melon suffers.)というのがある。先生の話では、メロンが一般市民、武力の戦いになると斬られるのは一般市民、斬るのは包丁で軍隊だというんですね。
すばらしい言葉があるなと思って、世界を見る小さなレンズとして持ち歩いていて、アフリカの諺をあつめた本を読んでいたら、アフリカのことばにもあるんですね。「象がケンカするときにいちばん痛い目に遭うのは草だ」、踏んづけられてつぶされるから。象たちのけんかの一番の犠牲者は草原の草だ。
When two elephants fight, it is the grass that gets trampled. 2匹の象がケンカすると、踏まれるのは草だ
去年、シカゴの詩人のカール・サンドバーグ(Carl Sandburg)の詩集を読みなおしていて、Proverb(諺)というタイトルの詩があって、特に僕がびっくりしたのは土瓶と石を一緒にした諺で、土瓶はjugと言いますが、Whether the stone bumps the jug or the jug bumps the stone, it is bad for the jug. 「石が土瓶にぶつかっても土瓶が石にぶつかっても、ひどい目に遭うのは土瓶だ」という。まさにこれはメロンと包丁の関係だ。サンドバーグはシカゴに住んでいてスカンジナビア、スウェーデン系の両親のもとで長男としてシカゴで育った。僕が住んでいたミシガンから湖を渡ればすぐそばで、きっとこの諺はミシガンにもあって、ひょっとしておばあちゃんは知っていて、自分はアメリカ人のくせして知らなかった。「ミシガンにいて何をやっていたんだろう、23年間アメリカにいた頃は」と思った。

面白い知識は無意識にしみこむ

40歳を過ぎてこの諺に出会って、すべてが同じような発想になってつながっているという思いがあった、なにも全部急いで出会う必要はないのだけれど、面白い出会いがことばの中にいっぱい待っているということを、語学を強制的にやらされている生徒達にどうやって早く手渡すかが大切だという気がします。おもしろくなくては入っていかない知識を詰め込もうとしても、詰め込まれた側が脳みその意識の部分だけではなく、感覚とつながる無意識の所で受け入れてしみこんでいかなければ残らない。それが言語教育の大きな課題です。
文法をやる必要はあるけれど、やればやるほどつまらなくなる、つまらなくなれば忘れてしまう。覚えたとしても生きた言語ではなく、死んだ知識・情報として、英語が魅力のないものになってしまう。どうしたらいいんだと考えてしまう。受験生とかがやればいいじゃんと思うのだけれど、どうもそんな簡単じゃないみたいですね。

「もてなしのif」とローレンスの詩

解決策ではないが、大事な道具になる、大事な「てこ」として使える言葉がある。それは「if」という言葉。詩人にとって使える、大事な言葉をかれればifと答える。光文社のPR誌で「if」ということばをテーマにして連載していて、詩にとって必要なifを取り上げています。「もしも詩があったら」というタイトルなんですけれども。
いろいろなifを見ていくと、「もてなしのif」というものがある。詩人はおもしろいことを考えて作品にしようとして、ifから出発して…、(そのとき、アーサーさんは演壇に置かれていたダルマを発見。それを手に持って…)「もしもこのダルマがメロンだったら…」、なんでここにダルマがここにあるんだろう?(笑) ダルマが岩にぶつかっても岩がダルマにぶつかっても、ダルマが痛い目に遭う…(笑)。そういう「もしもこれがこうだったら」とありえないことを考えると、今の現実から距離がとれたり、今の矛盾があぶり出されたりするのでifというのは大事。人間関係の中のifをみていくと、「もてなしのif」というのが大事なテーマ。
接客で、皆さんが海外旅行に行ったら、 いろんなところで聞くことになると思いますが、
If you need anythingとか
If there’s something I can help
If you like something else…とか、レストランでも聞かれる。
ifは、様々な選択肢を用意するために絶えず発生し、同時に、気心が知れない相手を柔らかく探るためにもある。どこの馬の骨か分からない宿泊客や店に来た一見[いちげん]さんを探る意味でも「もしお時間が許しますなら」「もし何かご用がありましたら」など、「もし」が入ってくる。客あしらいにつきものだといえると思います。もてなしの基本姿勢を簡潔に表したことばと言えるかもしれません。押しつけるのではなく、決めつけずに、丁寧に確かめつつ、でも、限定した選択肢の中にやわらかく誘導していく…(笑)、というのが「もしも」のifの作用・役割だと思う。お上(かみ)にもコンシェルジュにも通じる心得ということだと思います。
D.H.ローレンスがifを巧みに使う詩人でしたが、ifを使う場面を鮮やかに「マキシマス」という詩に書いています。古代ローマの哲学者で新プラトン主義を唱えた人です。彼が生きた紀元前4世紀のローマがキリスト教に変わりつつあった時代に、マキシマスは一神教ではなく多神教的を唱えていた。多神教的な多様な世界をローレンスは作り出そうとしているから、タイトルが「マキシマス」になっていると思う。メッセンジャーを招き入れてもてなすためにローレンスはifという言葉を使うんですね。Come in if you will.という言葉が出てくる。

Maximus ( D. H. Lawrence)
God is older than the sun and moon
and the eye cannot behold him
or voice describe him.

But a naked man, a stranger, leaned on the gate
with his cloak over his arm, waiting to asked in.
So I called him: Come in, if you will!
He came in slowly, and sat down by the hearth.
I said to him: And what is your name?
He looked at me without answer, but such a loveliness
entered me, I smiled to myself, saying: He is a God!
So he said: Hermes!

God is older than the sun and moon
and the eye cannot behold him
nor the voice describe him:
and still, this is the God Hermes, sitting by my hearth.

マキシマス、神は太陽よりも月よりも古く
人間の目には見えず
人間の声では語ることができないはず

ところが見知らぬ男が不意にやってきて
我が家の門に寄りかかって
それも裸で腕にケープだけ掛けて
待っている様子だった
もしよかったらお入り下さい
と僕が声をかけてみると
ゆっくり入ってきて炉端に座った
あの、お名前はときくと
彼はただだまってじっと見かえす
すると僕は全身が温かくなって
うっとりした
ひとり微笑んで僕は
この人は神とつぶやいた
彼はヘルメスだと名乗った

神は太陽よりも月よりも古く
人間の目には見えず
人間の声では語ることはできないはずだ
それでも今
我が家の炉端にヘルメスが腰を掛けている

という不思議な詩があるんですね。もてなしの心を表していると思うのですが、見知らぬ人をどう見るかという示唆にも富んでいて、不意に見た見知らぬ相手がもしかして神かもしれないと見るのが大事・基本だとローレンスは言っていると思う。古代の世界では、特に古代ギリシャでは神様は旅人の格好をして、それも貧乏で身をやつしてやってくるという伝統がある。知らない人があらわれたらヘルメスかもしれないよ思って、大金持ちの家の主人が旅人の足を洗うというしきたりもあったりした。
日本語では「人を見たら泥棒と思え」ということばがあって、そういう智慧も必要だと思うけれど、泥棒かもしれないし、ヘルメスのような存在で自分にとっていろんな可能性をはらんでいる人かもしれない。その両方だと思うんですよね。これは人間関係の話だけれど、ことばの関係でもこういうところがあるんですね。

「国際貢献」「国際宇宙ステーション」という言葉を疑う

テレビのニュースから毎日出てくる言葉の中身を点検し、どういうねらいで使われているか見ていくと、ドロボウばっかり、うそっぱちばかりなのですね。政治家が「国際社会の一員として…」と言っているのは、うそだよ、国際社会なんてどこにもないんだよ、そんなものは国際社会は米軍のこと言うんですよ。国際社会は米政府の一部の、一握りの人たちのことなんですよ。国際貢献とはその一握りの人に尽くすことなんですよ。国際貢献はありうるかもしれないけれど、ニュース・マスコミが使う「国際貢献」ということばは国際貢献じゃないんですよ。給油活動が国際貢献なら、戦火にガソリンを注ぐことなんだよね。世界の多くの市民によって害でしかないものが国際貢献として行われる。国際社会の一員としてやらなくちゃならない、と。その国際貢献が宇宙に持って行かれちゃったんだよね。国際宇宙ステーションを作っちゃったんだよね。国際宇宙ステーションとは市民の目が届かないところに箱物(はこもの)行政を運ぶプロジェクトなんです。この間、若田さんが帰ってきて「スシがくいてえ」とかなんとか言っていたんだけど(笑)、国際宇宙ステーションのことは、若田(わかだ)さんがどこまでわかっているのか、「わからなかったさん」なのかもしれないけれど(笑)、若田さんが参加している国際宇宙ステーションというプロジェクトは、完璧なインチキですよ。レーガン政権の時に立ちあげようって言っていたときは最初はアメリカが単独でやるって言っていたんですけれども、それが宇宙でいろいろ実験すると技術革新と発見につながるからやりましょう、と予算を組んで、ミサイル防衛システムとか同時に立ち上げて、両方完璧にインチキなんです。
無重力の中でやるっていっても、宇宙にいかなくても、別に地上で作れるから。無重力の中で実験して発見につながるなんて一切ない! 地球で無重力状態で出来るんです。「きぼう」を日本が1兆円使って作って完成して、完成して何が得られるの? そこで実験やっても地上で出来る実験しかなくって「地上から持っていったメダカを泳がせる」とか「ブーメランを投げて戻ってきた」とか(笑)、百歩譲って認めるとしたら「逆さに書けるボールペンの発見」、それはたしかに宇宙計画から出てきた発見ですけれども(笑)。
国際宇宙ステーションというのは何のためにやるかと言えば、国際宇宙ステーションの予算を組むためにやる。昨日のニュースを見ていたら、本当は打ち切るはずなんだけど、もっと先伸ばしてあと10年以上やる、って言うんだよね。永遠に永続的にガッポガッポの予算が組める。国際宇宙ステーションの目的は国際宇宙ステーションの無意味を隠すことです。その予算の継続して、僕らから金を巻き上げるための計画です。それを国際宇宙ステーションというから、国際宇宙ステーションという言葉もウソ。

子どもたちに伝えるときにはユーモアが必要

あまりにウソの言葉が飛び交っているので、言葉を見たら泥棒と思え、となるんです。大人には嘘に慣れるという悪い機能が身体に備わっている。僕等は慣れちゃうんだよね。でも子どもたち、思春期の中学生高校生は飼い慣らされていないから矛盾を感じるんだよね。だけど、分析したり、自分がどうしてこんなに腹が立つのかってわからない。でもウソを見抜いたり感知する能力はあるんだよね。だから大人の言葉を見たらドロボウと思えという気になる。だから英語も抵抗するんだよね。ウソに決まっていると。そういう側面もある。教える側も見抜いて、言葉を見たら嘘だなという部分を生徒達と共有して、もうひとつは言葉を見たら神様だと思って、面白い生き物と思え、発見があり、何か大事なものが潜んでいるなと思えるような思考回路を育てることも大切なんじゃないかな。疑(うたぐ)ることがいちばん大事なんだけれど、その奥にある言葉の面白さ、恩恵を見つける。そこが授業の中でするのがいちばん難しいんですけれど、それがないと…。どうやってことばの楽しい方の部分を生徒たちと共有し、手渡すか。手渡すときに欠かせないのがユーモアだと思う。面白くなきゃだめなんだよね。ユーモアを授業で醸しだすのが難しいね。わざとらしくやるとバカにされるだけだしね…、「寒い」とか。

チャップリンの笑いと「パパが池におっこちた」

チャップリンは受けるね…、悔しい、認めたくないけれど面白い。チャップリンは「公園と警察官と美女さえあればコメディを作り出せる」と自伝で述べている。美人はみんな良いと思うんだけれど、警官は権威の象徴、公園はみんなの共有する場、日本でこれは改革の名のもとでズタズタに斬られてきた「公共の場」。誰でも入れる。言語も公園なんです。英語という言語はビザが無くても入れる、入国手続きがない、鳥インフルエンザにかかっていても入れる。日本語もそうです。僕がふらっと、市ヶ谷の防衛省や皇居に入ろうとしたら、すぐ止められてしまうけれど、日本語の中にはいくらでも入れる。日本語は僕を拒まない。日本語もパスポート見せろとは言わない。言葉は公園、誰でも出入りできる公共の場。そこに警官もいる。チャップリンは警官は笑いを取るために必要でauthority、上に立つ人が必要だと言う。「パパが池におっこちた」の詩を思い出したんですね。

Daddy Fell into the Pond Alfred Noyes (1880-1958)

Everyone grumbled. The sky was grey.
We had nothing to do and nothing to say.
We were nearing the end of a dismal day,
And then there seemed to be nothing beyond,
Then
Daddy fell into the pond!

And everyone's face grew merry and bright,
And Timothy danced for sheer delight.
"Give me the camera, quick, oh quick!
He's crawling out of the duckweed!" Click!

Then the gardener suddenly slapped his knee,
And doubled up, shaking silently,
And the ducks all quacked as if they were daft,
And it sounded as if the old drake laughed.
Oh, there wasn't a thing that didn't respond
When Daddy Fell into the pond!

木坂涼(きさかりょう)という詩人と夫婦げんかしながら翻訳しました(笑)。

「パパが池におっこちた」
どんよりとした空のもと みんなの気分はさえなかった
我が家の誰もがつまんなそうで 
★[よく教室がこんな雰囲気になるでしょ?(笑)]
特別おしゃべりするでもなく そのまま一日が終わるかに見えた
ところがパパが足を滑らせてどっぼーんと池におっこちた
みんなの顔は一気に輝き
ジミー坊やは小躍りして
ママも言った
はやくはやくカメラ
はい上がってくるわ 
ほら 浮き草のなかから
カシャ
植木のおじさんは
ひざをたたいて
お腹抱え、
声を押し殺して身体を震わせた
池のアヒルたちはガフガフガフと大騒ぎ
でも長老のアヒルの声は どうしたってゲラゲラガァに聞こえたよ
楽しい波がまわりの全てにひろがった
パパが池に落っこちた

という他愛のない詩なんだけれど、これはパパであるのが大切。教室に置き換えると先生。落ちたら受けるよ、ケイタイもずぶぬれ。コケルというと、話がぐるっと回って大阪に戻るけれど、大阪の人は上手にこけて笑いを取る。ユーモアのひとつの基本が自嘲。それを言語教育のなかでユーモアを醸しだすためには、先生が冒険をしなければいけないのかな。滑りやすいところで授業をする(笑)、そしてときどきすべっちゃう。わざと滑らなくてもいいかな、自然に話が滑ることもあるから…(笑)。それが興味を引く呼び水になるんじゃないかな。教材選びから冒険が可能になるものを見つけないといけないけれども、授業にはそういう可能性がある、先生が「危ない橋を渡っているけどな、この話…」という、どきどきするような、先生も分からない、生徒と一緒に見いだそうとする。教材のなかにはそういう部分がいっぱい含まれている。授業に取り入れるのは思っているほど難しくない。

絵本『ふしぎの国のアリス』のunbirthdayをどう訳すか

先ほど紹介していただいた絵本『ふしぎの国のアリス』はキャロルの原作そのままではなく、『ふしぎの国のアリス』と『鏡の国のアリス』が一緒になったものでメアリー・ブレアという画家が絵を描いています。大好きなハンプティダンプティが出てこないのですが、原作ではハンプティダンプティのセリフで、絵本ではいかれ帽子屋のセリフとして、今日はクイズにしてみなさんにたくさんスベっていただこうと思っていたのですが、クイズはあとでバスの中で[編集註:この講演の後はオプショナルツアーで「東京大空襲・戦争資料センター」「第五福竜丸展示館」が予定されていた。]ということで、クイズにしようと思っていたネタをばらしてしまいますが、キャロルの『鏡の国のアリス』に、誕生日の否定形が出てくる。ハンプティダンプティが女王と王様からプレゼントをもらって、Birthday presentでもらったのではなくって、Unbirthday presentとしてもらったと言うと、アリスはバースデイは知っているわ、という。バースデイは年に1回しかなくって、アンバースデイの方がいいじゃん。364日はUnbirthday。この絵本ではいかれ帽子屋のセリフとして出てくる。辞書にも載っているが「誕生日ではない日」という定義が載っているが、それは意味ではない。アリスの翻訳は嫌っていうほどある。20ぐらい出ている。結局、他の人の翻訳を読まないで、原作とこの絵本と綱引きして訳してから、そのあとにその翻訳を見てみたら、「非誕生日」と「不誕生日」が多かった、つまんないよね。会話で使えないよね。「誕生日じゃない日」「誕生しない日[び]」、北村太郎という詩人はカタカナで「アンバースデイ」と逃げています。ディズニーのアニメでは「なんでもない日」としていて、いちばん良いかもしれないけれど、Unbirthdayのbirthdayと綱引きしている単語の面白さは消える。
クイズはみなさんがどう訳すかという。翻訳は決まっていない。英語は決まっていないですよ、訳は。教科書に載っているのは決まっているように見えるけれど、なにひとつ決まっていない。おもしろかったらこっちの勝ち。良い訳はいくらでも作れるはずだから、その可能性を授業にどう取り入れるかがポイント。僕の訳を読んで終わりにしますが、アリスが行くと、いかれ帽子屋は一人でパーティをやっている。

大きな椅子の後ろからパッと、
グリーンの帽子をかぶった赤毛の男が飛び出してきました。
「いらっしゃい、帽子屋だい。
俺の『誕じゃない日パーティ』へようこそ」と声を張り上げました。
アリスが「あの、それって誕生日パーティのことでしょう?」と恐る恐る言うと、「ちがうよ。誕生日っていうのはたしか年に1回しかやってこないだろう、それじゃぁ面白くないから、俺は『誕(たん)じゃない日(び)パーティ』を開くんだ。そうすれば年に300と、たしか64日ぐらい出来るんだよ」
「あら、そういえば私も誕(たん)じゃない日(び)だわ。」
アリスが言うと、いかれ帽子屋は
「お誕(たん)じゃない日(び) おめでとう」と
ティーカップに紅茶を注いでアリスに差し出しました。
「オタクのお誕(たん)じゃない日(び)を盛大に祝うために俺は得意の歌を歌いましょう。」
いかれ帽子屋は大きく息を吸って歌い出しました 

(きらきら星の節で)
きらきら こうもり~
虫(むし) 飯(めし) 大盛り(おおも)~
食べつつ飛びつつ
飛びつつパクパク
きらきら こうもり~
虫(むし) 飯(めし) 大盛り(おおも)~

歌い終わるといかれ帽子屋は一人、ぱちぱち手をたたいて
良い声だな~と自分をほめました。
                   (朗読終了)

“Twinkle, twinkle, little bat!
How I wonder what you’re at!”
 が、キャロルの原作で使われている。「きらきらぼし」ではなく、「きらきらこうもり」ですね。batがatとライムでつながっているんだけれど、いろいろなきらきら星の訳があるが決まっているわけではない。batがライムでつながっているから、日本語でまったく同じ事はやれないがワクワクする宿題・課題だし、出来るとは限らないし、すべって池に落っこちてバカにされるかも知れないけれど、宿題として先生も生徒も一緒になって作ると、言葉が面白いという側面がみえてくる。僕もこの本を翻訳したとき、一所懸命考えると、虫飯大盛りが思いついたりする。「英語の原文に『虫(むし) 飯(めし)』が出てくるんですか?」となるけれど、元の歌の持っている楽しさと、コウモリという動物が持っている世界が引き出せる。楽しみながら語学ができればといつも思います。どうもありがとうございました。(会場拍手)

★参考資料

●織田作之助
 口繩(くちなは)とは大阪で蛇のことである。といへば、はや察せられるやうに、口繩坂はまことに蛇の如くくねくねと木々の間を縫うて登る古びた石段の坂である。蛇坂といつてしまへば打ちこはしになるところを、くちなは坂とよんだところに情調もをかし味もうかがはれ、この名のゆゑに大阪では一番さきに頭に泛ぶ坂なのだが、しかし年少の頃の私は口繩坂といふ名称のもつ趣きには注意が向かず、むしろその坂を登り詰めた高台が夕陽丘とよばれ、その界隈の町が夕陽丘であることの方に、淡い青春の想ひが傾いた。夕陽丘とは古くからある名であらう。昔この高台からはるかに西を望めば、浪華(なには)の海に夕陽の落ちるのが眺められたのであらう。
「下駄屋の隣に薬屋があつた。薬屋の隣に風呂屋があつた。風呂屋の隣に床屋があつた。床屋の隣に仏壇屋があつた。仏壇屋の隣に桶屋があつた。桶屋の隣に標札屋があつた。標札屋の隣に……(と見て行つて、私はおやと思つた。)本屋はもうなかつたのである。」
参照:青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/507_19626.html

●ことわざ
“Whether the knife falls on the melon or the melon on the knife, the melon suffers” – African Proverb
http://www.quotesandpoem.com/quotes/showquotes/author/african-proverb/31014

“When two elephants fight, it is the grass that gets trampled” –
— African Proverb
http://www.quotesandpoem.com/quotes/showquotes/author/African-Proverb/31018

●カール・サンドバーグ
 Carl Sandburg (January 6, 1878 – July 22, 1967) was an American writer and editor, best known for his poetry. He won two Pulitzer Prizes, one for his poetry and another for a biography of Abraham Lincoln. H. L. Mencken called Carl Sandburg “indubitably an American in every pulse-beat.”
 参照:Wikipedia

●Proverbという詩に関する情報:http://www.wirz.de/music/sandbfrm.htm

●ローレンスの詩
http://inwardboundpoetry.blogspot.com/2007/03/371-maximus-d-h-lawrence.html

●鏡の国のアリス “Twinkle, twinkle, little bat!
How I wonder what you’re at!”
You know the song, perhaps?’
‘I’ve heard something like it,’ said Alice.
‘It goes on, you know,’ the Hatter continued, ‘in this way;
“Up above the world you fly,
Like a tea-tray in the sky.
Twinkle, twinkle’
Here the Dormouse shook itself, and began singing in its sleep ‘Twinkle, twinkle, twinkle, twinkle -‘ and went on so long that they had to pinch it to make it stop.
‘Well, I’d hardly finished the first verse,’ said the Hatter, ‘when the Queen jumped up and bawled out, “He’s murdering the time! Off with his head!”‘
‘How dreadfully savage!’ exclaimed Alice.

参照:グーテンベルクプロジェクト
http://www.gutenberg.org/files/11/11-h/11-h.htm


Evidently Humpty Dumpty was very angry, though he said nothing for a minute or two. When he DID speak again, it was in a deep growl.
‘It is a MOST – PROVOKING thing,’ he said at last, ‘when a person doesn’t know a cravat from a belt!’
‘I know it’s very ignorant of me,’ Alice said, in so humble a tone that Humpty Dumpty relented.
‘It’s a cravat, child, and a beautiful one, as you say. It’s a present from the White King and Queen. There now!’
‘Is it really?’ said Alice, quite pleased to find that she HAD chosen a good subject, after all.
‘They gave it me,’ Humpty Dumpty continued thoughtfully, as he crossed one knee over the other and clasped his hands round it, ‘they gave it me – for an un-birthday present.’
‘I beg your pardon?’ Alice said with a puzzled air.
‘I’m not offended,’ said Humpty Dumpty.
‘I mean, what IS an un-birthday present?’
‘A present given when it isn’t your birthday, of course.’

Alice considered a little. ‘I like birthday presents best,’ she said at last.
‘You don’t know what you’re talking about!’ cried Humpty Dumpty. ‘How many days are there in a year?’
‘Three hundred and sixty-five,’ said Alice.
‘And how many birthdays have you?’
‘One.’
‘And if you take one from three hundred and sixty-five, what remains?’
‘Three hundred and sixty-four, of course.’
Humpty Dumpty looked doubtful. ‘I’d rather see that done on paper,’ he said.
Alice couldn’t help smiling as she took out her memorandum-book, and worked the sum for him:
365
1
____
364
___
Humpty Dumpty took the book, and looked at it carefully. ‘That seems to be done right;’ he began.
‘You’re holding it upside down!’ Alice interrupted.
‘To be sure I was!’ Humpty Dumpty said gaily, as she turned it round for him. ‘I thought it looked a little queer. As I was saying, that SEEMS to be done right ;though I haven’t time to look it over thoroughly just now ;and that shows that there are three hundred and sixty-four days when you might get un-birthday presents;’
‘Certainly,’ said Alice.
‘And only ONE for birthday presents, you know. There’s glory for you!’
‘I don’t know what you mean by “glory,”‘ Alice said.
Humpty Dumpty smiled contemptuously. ‘Of course you don’t;till I tell you. I meant “there’s a nice knock-down argument for you!”‘
‘But “glory” doesn’t mean “a nice knock-down argument,”‘ Alice objected.
‘When I use a word,’ Humpty Dumpty said in rather a scornful tone, ‘it means just what I choose it to mean;neither more nor less.’
‘The question is,’ said Alice, ‘whether you CAN make words mean so many different things.’
‘The question is,’ said Humpty Dumpty, ‘which is to be master;that’s all.’

参照:
http://en.wikisource.org/wiki/Through_the_Looking-Glass,_and_What_Alice_Found_There/Chapter_VI

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