泥 憲和さんのFacebook投稿(2016年11月3日)を読む

〈ルターの推しビト〉
〈ルターの推しビト〉
ルターさん
ルターさん

Facebookは「個人情報ダダ漏れ」でリスクがありますが、それ以上の恩恵が私にはあります。
泥 憲和さんとは面識はありませんでしたが、いつの間にかFacebookで友達4,464人のうちの1人になっていました。幸運だったと思います。
泥 憲和さんは平成29年5月3日5時32分永眠されました (享年64)。
今日(2023/11/05)Facebookの思い出機能であがっていた泥さんのFacebook投稿をシェアします。多くの人にお読みいただきたいです。

泥 憲和 2016年11月3日 【人の気持ちということ】

 タレントがナチスっぽいコスプレしてたのを米国のユダヤ人権団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)」から抗議されたことに関して、ツイッターでこんな意見を読みました。

「サイモンなんたらは、ホントにナチスの制服を広めたくないなら、謝罪しろ言う前に、このデザインのどこがダメで、どう直せばオッケーなのか、丁寧に全世界に教えて欲しい。」

 マニュアル?
 決められた範囲ならオッケーで、はみ出したらアウトですか。
 とほほほ~と泣きたくなる、悲しい思考法です。

 SWCが何を訴えているのかちっともわかってないからこんな発言がでてくるんでしょうね。
 問題の本質は服装の形にあると思っている。
 勘違いも甚だしい。

 まず、ナチス思想がユダヤ人だけではなくすべての人間の尊厳そのものを否定する絶対悪だという考え方が出発点にあります。
 ナチス思想は芽のうちに摘み取らなければ、広まってからでは手遅れだという教訓もあります。
 ナチスに似せる行為は、ナチスへの親和性とか無警戒が表出されているので、SWCは抗議するのです。
 ファッションチェックしているわけじゃない。

 こう言っても、人種迫害の恐怖や怒りを理解しようとしない人たちは言い続けるでしょう、
「だからどこまでなら許されるんだよ!」と。
 うっさいわ、どこまでもここまでもあるかっ! 
 迫害にあった人の気持ちになって自分で考えろ。
 他人の傷口に何グラムまでなら塩を擦り付けてもいいんですかあと尋ねる間抜けがどこにいるか、タワケもの!

泥 憲和 2016年11月3日 【欅坂のナチス】

 意見をツイートしたらあっという間に100件ぐらい反応が。
 まあ食いつきのよいこと、よほど痛かったのかな、ネトウヨは。
 仕方がないのでサル並みのネトウヨにでもわかるように噛み砕いて連ツイしました。

 欅坂のコスプレがナチスの制服に似てたらなんでダメなんだ、どこまでなら似てることになるんだとおなじみの難癖がちらほら。事の本質からはずれて形の問題としか思ってない人や、わざとそう思わせるように仕向ける奴もいて困ったことだ。

 ナチス思想はユダヤだけの敵じゃなくて、民族を超えた、人間の尊厳に敵対する絶対悪だというのが欧米のスタンダードだし、事実そうだと思う。無警戒だとナチス思想の再来を防げない。ナチスを真似るのはナチスに対する無警戒のなせる業だから非難される。

 ナチスの制服は民衆を引き付けるために一流のデザイナーにつくらせたんだからカッコいいのは当然で、その作戦が図に当たってナチスは勢力を伸ばした。「カッコいいから真似ただけ」は言い訳にならない。見かけに乗せられた結果がどうなったかを知るべきだ。

 「いや、日本の場合はただの猿真似で、思想的にスカスカで、背後には何の思想も歴史性もない」というのは言い訳になるか。ならない。同じ地球上で起きた悲劇についてそこまでスカスカのパッパラパーであること自体が批判の対象となるだろう。

 見かけに乗せられたらとんでもない結果を招いたドイツ民衆のことを教訓化して、同じ手で別のナチスにしてやられるのを防ぐには、ナチスの手口を忘れないことだというのが欧米の普通の市民の考え方だ。日本人も別のナチスを警戒した方がよいのは論を待たない。

 そういうことで、ナチスのコスチュームというのはいわば炭鉱のカナリアだと思う。警戒心を忘れないための、時代のカナリアだ。だから「似てるか似ていないか」の問題ではない。強いて言うなら「似せようとしたのか、偶然なのか」の問題になるのかも知れない。

 似せようとしたのなら完全にアウトだ。ちっとも似てなくても、似せようとしたことそれ自体が間違いだ。偶然似たのなら?その偶然は、ナチスを忌避する社会では起きようのない偶然だ。無警戒もまた悲劇につながる道なのだからペケ。この機会にナチスのことを学べばいい。

 現状、ナチス問題は日本人にとって他人事のようにされている。だから普通に生きているだけの人が知らないのはある程度は仕方ない。だけど教えてもらってるのに言を左右にして自己正当化を図るのはよそう。人権に鈍感すぎるし、卑怯だし、不誠実だし、バカだから。終わり

泥 憲和 2016年11月4日 【欅坂のナチス その②】

◆手のひらで踊る者は足の向く先を知らない


 為政者は真の意図を隠して命令することができます。
 命令を下される側は真の意図を知らないので忠実に従います。

 ナチス指導部はヒトラーの思いつきに従ってユダヤ人絶滅を決めました。
 手始めにユダヤ人登録を命じました。
 死ぬべき者たちを特定するため、すべてのユダヤ人に家族の名前、住所、財産を登録させるのです。
 実務を担ったのはユダヤ人公務員とその下請けであるユダヤ人協会でした。
 彼らは律儀に仕事を遂行しました。
 効率的なやり方を考え、登録漏れを防ぐ方策や、サボタージュを許さない方策を編み出して実行しました。

 つぎにナチスは全財産の供出を命じました。
 いずれ死ぬ者に財産は必要ないからです。
 命令に従わなければ手ひどい報復が待っているので、ユダヤ人公務員やユダヤ人協会の職員は同胞の身を守るために、漏れのないように財産供出をうながし、または強制しました。

 つぎにナチスは強制収容所への移住を命じました。
 もちろん、効率よく殺すためにです。
 移住を拒否すれば直ちに殺されるので、ユダヤ人公務員やユダヤ人協会の職員は同胞のために移住の手はずを整え、住民を駆り立てて集め、貨車に乗せました。そして自分たちも貨車に乗りました。

◆孤独な羊は寂しく、群れの中にいれは安心

 ユダヤ人の協力者たちは最後まで真の意図を知りませんでした。
 いや、おぼろげに感づいて、疑問が芽生えたかもしれませんが、それを口にしてどうなるでしょうか。
 浮いてしまうだけです。
 おかしいと思いながらも、動き始めた巨大な社会の流れに身を任す以外に生きる方法はないのです
 プロセスに反抗して殺されたユダヤ人は200人程度です。
 のちの悲劇に比べると、恐ろしいほどの無抵抗ぶりです。
 だってもしかしたら考えすぎかもしれないし、そんなことで官憲ににらまれて一生を棒に振ったら、愚か者と言われてしまうでしょう。
 そんなリスクを犯したくありません。
 こうして、最終的な悲劇が粛々と用意されていきました。

 始まりは一人の偏執的人物の思いつきでした。
 ナチス思想は必ずしもユダヤ人をガス室で殺すことに直結しませんが、ナチスを大きくしたい幹部たちは、ヒトラーを必要としていました。
 そこでヒトラーの思いつきを実現するために、最初の一手を打ちました。半信半疑だったかもしれません。
 するとしばらくすると、ナチス思想すなわち個々人は社会の歯車であれという全体主義思想に染め上げられたドイツ社会は、見事に機械的に命令どおりに機能しはじめました。
 自動的に官僚機構が動きました。

 一人ひとりの役人は全体像を知りませんでした。
 個々人は与えられた役割、すなわちユダヤ人協会に決定事項を伝えたり、進捗状況を確認したり、名簿用紙を配ったり集めたりせかしたり、そんな小さな実務を担っただけです。
 誰もが与えられた役割をたんたんとこなしていただけです。
 なんだか変だぞという疑問や、迫害に対するささやかな罪の意識はあったでしょうが、民族憎悪が帳消しにしました。

◆カナリアはほめられることがない


 私たちは為政者の真の意図を知るすべがありません。
 与えられた仕事がどんな意図でどんな回路で自分の所まで降りてきたのか、そんなことはわかりません。
 たとえばミリタリーコスチュームで売り出そうという企画が与えられれば、カッコいいコスチュームを作って売り出すことに懸命になります。
 その企画がどういう意図で発案されたのか、そんなことは知ったことではありません。
 タレントは言われるがままに企画に沿って最善のパフォーマンスを実現しようと努力します。
 それが自分自身をいつか囲いに追い込む準備だなどとは誰も気づかないし、気づいた時には手遅れです。

 悲劇を防ぐには、時代のカナリアが必要です。
 誰も気づかないときに警告を発するカナリアです。
 気づいたものが勇気を出して声を上げる。これしかありません。
 思い過ごしかもしれないけれど、そうすることが必要なのです。
 仮に思い過ごしだったら、愚か者といわれて一生を棒に振るかも知れません。
 仮にその気づきが本物で、警告が功を奏して恐ろしい悲劇を未然に防げたとしましょう。
 すると、起こるはずだったけど起こらなかった悲劇を防いだと、誰が分かってくれるでしょうか。
 あんたの警告は杞憂だったねと、すまされてしまうでしょう。
 どっちに転んでも、称賛されることはありません。

◆カナリアは鳴いている


  戦後、もしかすると時代のカナリアたちが、幾度も危機を未然に防いできたのかもしれません。恐らくそうなのだと思います。
 でも人はいうのです。
 「あんたは戦争の危機だと何度も言ったけど、結局なんにもなかったじゃないか。」
 「オオカミ少年かよ」
 人は笑いますが、でも、それでも、そうすることが必要だと思う人がいなければ、悲劇は防げないのです。
 まったく割に合わない話ですが、これが世の中というものです。

 幸いなことに現代日本では無数のカナリアが声を上げています。
 小さくない声です。
 この声がきっと世の人に届くことを私は信じます。
 とある危機が人々の大きな力で回避された時(それは戦争だけではありません。大小さまざまな問題です)、世の人は、大きな力のはじまりが小さなカナリアの警告だったと気づかないかもしれません。
 誰か偉い人が手柄を独り占めするかもしれません。
 それでもいいじゃないですか。
 その時は、カナリア同士、どこかでささやかに勝利の祝杯を上げたいですね。

ルターの感想

「カナリア同士、どこかでささやかに勝利の祝杯を上げたいですね」という、泥さんの酒席の末席にいられるよう、わたくし「英文法のルターさん」は今日もブログ記事を書き、Twitter(X)でピヨピヨとtweetして参ります。

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