「フランシーヌの場合」を知っていますか?

ルターさん
ルターさん

みなさん、こんにちは。英文法のルターさんです。
#英語教師のバトン ということで、昭和世代のルターから平成・令和のみなさんへのバトンです。別ブログ記事を読み直していて、「フランシーヌの場合」「ヴェトナム戦争時のマダム・ヌーのこと」についてはお知らせしておこうと思いました。
ルター(50代女性)と理科のS先生(30代男性)の会話です。
「6」に植松誠さん(日本聖公会首座主教)のお話を加筆しました。

1)映画『セックスと嘘とビデオテープ』と歌「フランシーヌの場合」

 今日(2021.02.24)は理科のS先生(30代男性)と差別や戦争責任についてお話しした。S先生は身近な心通う人には心寄せられるが、例えばアフリカで飢餓に苦しむ子どもには心が通わないので、ある意味「何とも感じない」ということだった。
 そう聞いたルターの心には映画『セックスと嘘とビデオテープ』(主人公の女性がアフリカで飢餓に苦しむ子どもたちに心寄せているのに夫が理解してくれない)が思い浮かんだのと同時に「フランシーヌの場合」が思い浮かんだので、「私が子どもの頃、母がよく歌ってくれました」と言って「フランシーヌの場合はあまりにもお馬鹿さん」と一節歌ってみせたあとで、フランスのフランシーヌさんはアフリカの子どもたちの飢餓に対して心を寄せすぎて自殺してしまったのですと説明した。

●参考Wikipedia:スティーヴン・ソダーバーグの脚本・監督作品『セックスと嘘とビデオテープ』(1989年) カンヌ国際映画祭パルム・ドール(最高賞グランプリ)

新谷のり子/フランシーヌの場合(1969年) 歌詞ネット

フランシーヌの場合は、1969年6月15日に発売された新谷のり子のデビューシングル。
いまいずみあきら作詞、郷伍郎作曲。
フランス語のナレーションは古賀力(つとむ)、プロデュースは飯塚恆雄。
売り上げは80万枚。
1969年3月30日の日曜日、パリの路上でフランシーヌ・ルコント(当時30歳の女性)が、ビアフラの飢餓に抗議して焼身自殺した。3月31日に朝日新聞夕刊が小さなスペースでこの外電(AFP)を載せた。CF(コマーシャル・フイルム)の制作に携わり、CMソングの作曲家でもあった郷伍郎は、この記事に触発されて『フランシーヌの場合』を作詞作曲した。

「フランシーヌの場合」Wikipedia

2)ヴェトナム戦争時のマダム・ヌーのこと

すると、S先生は「お馬鹿さん」だと受け止めたようだったので、ヴェトナム戦争の時に焼身自殺したお坊さんのことを人間バーベキューと言い放ったマダム・ヌーのことを話し、お坊さんが抗議の焼身自殺するほど、当時のヴェトナムはひどい状況だったのであったこととマダム・ヌーの顛末てんまつをwikipediaで読んでみてくださいと話した。

マダム・ゴ・ディン・ヌー(Madame Ngo Dinh Nhu、1924-2011)は、南ベトナムのゴ・ディン・ジエム大統領の実弟である大統領顧問ゴ・ディン・ヌーの妻。

1963年、カトリック教徒優遇政策と仏教徒に対する弾圧を推し進めたジエム政権に抗議して、首都のサイゴン市内で焼身自殺を完遂した僧侶、ティック・クアン・ドックの行動を、「あんなのは単なる人間バーベキューよ」「僧侶が一人バーベキューになったから何だって云うの」「西欧化に抗議するのにアメリカ製のガソリンを使うなんて矛盾してるわ」「こんど同じことをするなら、ガソリンとマッチを進呈する」などと、英語でアメリカ合衆国のテレビインタビュー上で大放言をした。
マダム・ヌーのこの不見識な発言は、世界中のメディアで報道され、とてつもない大顰蹙を買い、直後に謝罪をしたものの、世間は黙っておらず、当時の南ベトナムの事実上の宗主国である、アメリカ合衆国大統領のジョン・F・ケネディもこれに激怒し、これは1963年11月の軍事クーデターの一因になったと言われている。このような発言を連発したことと、実力者である夫の威を借りて強権的な態度を取り続けたことから、欧米のメディアからドラゴン・レディという渾名をつけられた。
1963年11月の軍事クーデターで、ジエム大統領および夫のヌー大統領顧問は殺害(されたが、マダム・ヌーは生き延び、国外逃亡した。1964年に南ベトナムに戻ろうとしたが入国を拒否され、事実上の国外追放となった。

その後、ベトナム戦争の期間を含めて帰国することはかなわず、アメリカ合衆国やイタリア、フランスなど欧米諸国を転々とした。その後統一され、社会主義国となったベトナム社会主義共和国にも戻らず、2011年4月24日にイタリアのローマの病院で死去した。

長女は、1967年、22歳で自動車事故死。
次女も、2012年、52歳で自動車事故死。

マダム・ヌー Wikipedia

3)人々の祈りや氣[き]はあなどれない

また、ルターはハンガーストライキ、署名活動、デモなどは、一見したところ効果がなさそうだけれども、それらが発する「祈り」「」はあなどれないのですと話した。S先生はハンガーストライキは自殺をほのめかすのと同じような脅す手法だと見なしていて好まないようだった。

4)ドキュメンタリー映画『マイケル・ムーアの世界侵略のススメ』

 S先生は基本的に公平な優しい人柄で、身近な人への心配りは出来るが、遠くの出来事には心寄せられないということ、また、過去の戦争責任については今の自分とは関係が無いという考えを表明されたのだった。そこで、ルターはやはり引き下がれないので、ドキュメンタリー映画『マイケル・ムーアの世界侵略のススメ』に出てくるドイツの高校生たちが戦争責任を考える授業を受けている話をし、マイケル・ムーア監督は「自分が生まれる前のことと片づけない。『自分には関係ない』『自分のせいじゃない』『私は人を殺していない』としない。」と話していると伝えた。

●映画『マイケル・ムーアの世界侵略のススメ』
 『マイケル・ムーアの世界侵略のススメ』 映画.com

 『マイケル・ムーアの世界侵略のススメ』英語版Wikipedia(日本語版がない)

話の最初の方で「画家のエッシャーが戦争中でも関係なく自分の世界で絵を描いていたのと同じで、(S先生は)科学者っていう感じがします」とルターの所感を述べておいた。

仕事の合間の短時間だったので、うまく伝えきれなかったが、大切な話なので仕事が終わり、帰宅してブログに書き留めた。「フランシーヌの場合」をYoutubeで久しぶりに聴いてみた。
私には「おばかさん」とは言えない。

フランシーヌの場合 YouTube

5)2023/01/31のルターの気持ち

小嶋先生
小嶋先生

今日のルターさんのお話、どれも知りませんでした。

ルターさん
ルターさん

興味があることがあれば、調べてみてください。
全体的にルターの悪いところが出てます。S先生を説得しようとしてしまいましたね。
人々の祈りや[き]はあなどれないというのは真理です。
平和を希求し祈る気持ちを忘れずに、良いを発しつつ、平和を実践していきます。
他者の悲しみを知ったときに、他人事(ひとごと)で終わらせるのではなく(拒絶でもなく感応しすぎるのでもなく)適切に受容できるようになれたらと思います。そのために学びが必要だと思います。その学びに資する英語教育を目指します。

初出:ルター、学校へ行く(通信制高校7年目 その21):フランシーヌの場合

6)植松誠さん(日本聖公会首座主教)のお話 

ルターさん
ルターさん

2020.08.16 の別ブログの記事「NHKラジオ第二「宗教の時間」から聞こえてきた福音」ですが、上記の「4」と関連しますので、ここに載せます。
植松誠さんが「自分が参加していない第二次世界大戦に関係がある」と気づいたというお話です。

植松誠さん(日本聖公会首座主教)は3つのテーマでお話されました。以下、メモを取りながらではなかったので不完全ですが再現しました。朝、聞くことが出来た素晴らしい福音でした。

① 戦後33年(1945+33=1978年)にしてThe war is over.(戦争は終わった)

 植松誠さんは「汝の敵を愛せ」という聖書の言葉に疑問を感じつつ過ごし、教会から距離を取っていた若い時代を経て、日本聖公会の信徒としてオクラホマ州の聖公会教会に行くことになった。そこで歓迎されていない雰囲気を感じ取った。その理由がだんだんわかってきた。模範的な信徒としてまとめ役をしていた男性が第2次大戦中に空軍のパイロットとして従軍し、日本軍の捕虜になり、殺された人もいた中で生き残った4人のうちの1人だったのだ。それから4年間、彼とはほとんど会話することもなかったが毎週礼拝には参加していたので顔を合わす日々が続いた。そんなある日、植松さんは日本にいる婚約者をアメリカに呼んで結婚式を教会で挙げることになった。日本から妻の両親が参加出来ないことを知ったその男性は、植松さんの家にやってきて、自分が花嫁の父の役をすると申し出てくれた。聞き間違ったかと思って、牧師に相談し確かめてもらったら彼が本気だということがわかった。どうなることかと思い、前日は眠れなかった。式の当日、彼は花嫁の手を取って泣いていた。そして回廊を歩き、自分のところに来た彼が言った言葉が、The war is over.(戦争は終わった)だった。それまで植松さんは自分は戦争には関係が無いし、自分には戦争責任はないと思っていた。しかしそうではないと気づかされた。それまでの4年間、彼も傷ついていたが彼を見守る信徒達も傷ついていたことにも思いが及んだ。

戦後33年(1945+33=1978年)までその男性がずっと抱えてきたこと、そしてもしも日本人の聖公会の信徒が教会に来なかったらその男性は戦争の傷をその後もずっと抱え続けていたかもしれないということ、そういう戦争の恐ろしさを感じたということ、さらには戦争責任はその後の世代にもあるのだという事実に気づいたということ、こういうことが植松さんのお話の中で明かされた。

② 和解はそんな簡単なものじゃない!

 牧師になってパプアニューギニア聖公会から招かれて訪問した。日本軍の現地でしたことがあったにも関わらず、各地で温かい歓迎を受けた。そして現地の教会で「和解は無い(No reconciliation.)、今日、和解したからだ」という言葉を言われたときに感じたのは「和解はそんな簡単なものじゃない!」という思いだった。

③ 韓国との交流に見える希望

韓国との交流がある。若い世代に希望を見いだしている。

④ 引用

●参考1:8月16日日曜NHKラジオ第2 午前8時30分~ 午前9時00分
選「終わりなき平和への巡礼」

3代目信徒の植松誠さんはなんじの敵を愛せという教えと教会の現実のかい離に疑問を感じ芸術大学に進学、アメリカの大学で研究を続けた。そして米国聖公会の教会で日本軍の捕虜になって日本人を憎み続けていた元米軍将校に出会う。戦後数十年その彼が憎しみを乗り越え、植松さんの結婚式の日に「今日戦争は終わった」と言ってくれた。植松さんはこれを契機に聖職者の道へ。平和のため国際的な活動を続ける植松さんにその信念を聞く

日本聖公会首座主教…植松誠

https://www4.nhk.or.jp/syukyo-jikan/5/

●参考2:2019年3月3日放送 日本聖公会首座主教・植松誠さんの言葉

“赦し”とか“愛する”とかいう言葉を軽々しく口にするのは危ない。“謝罪”とは、そこから自分がどうやって生き始めるか問われ、生き方が変わっているはずのものです

https://www4.nhk.or.jp/syukyo-jikan/31/

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